■メモーー20230223
“年代”バナシとして、「障懇」が出来たのはおそらく1976年だと思います=篠原さんが和光に移ったのは1973年。
『関係の原像を描く』(現代書館)の30頁に次のような記載がありました。以下、おおむね『関係の~』に基づいていて、ページ数を適宜示します。
「そのころ、障害学生の生活等に関する懇談会(以下、障懇)が教職員の間ではじまったばかりだったんだけど、ぼくは学生生活主任の一人として、そこに関わっていた。「障懇」の最初の議題が境屋さんのことだったんだよね。」(30頁)
この境屋さんというのは、境屋純子(さかいや・じゅんこ)さんのことで、1976年の4月に和光大学に入っています★01/02。境屋さんは後に卒論をもとにして『空飛ぶトラブルメーカー――「障害」者で私生子の私がいて』を書いています。おなじく『関係の~』によると、境屋さんが入ってきたときに(つまるところ境屋さんのために)「スロープ」を作ろうという話が教員の中にあったが、それに対して境屋さん(たち★03)が反対したようです。
そのあと1977年に鈴木治郎(すずき・じろう=車いすユーザ)さんが和光大学に入り★04、「障懇」の中で「スロープ」を作る計画がまたしても持ち上がったようです。それに対して「遊歩道」という形で設置せよと鈴木さんたちが言い「遊歩道」が設置されたようで、その年は不明です。同時に図書館の「障害者用」トイレ設置の流れがあり、これに対しても「障懇」で話しあわれたと書いてあります。
スロープに関してはそういう形でした。「和光坂」の点字ブロックのことも書いてありました。
「ノートテイク」に関してはすくなくとも『関係の~』にはあまり書いておらず、兵頭毅(ひょうどう・つよし)★05さんが入った1977年段階ではノートテイカーがいくらかいたことが書いてあります(73頁)。兵頭さんは入ってすぐに手話通訳ができる女性(たぶん深海=西村久美子さん★06)と出会っていて、そこで手話講座を開くという方に進んだようです(そもそも兵頭さんは口話がかなりできるという具合の推薦で和光に入った)。そこからいろいろあって小島純郎先生が手話を覚えるというのにつながります★07。
この間にその深海久美子さん/越智大輔さん/兵頭毅さんなどが「関東聴覚障害学生懇談会」に参加し、その活動のなかでノートテイクのことを(も)考えていったようですが、「システム化」は1990年代のはじめまで行われません(関東聴懇→筑波技術短期大学/身障者短大設置構想の流れは私一応知っていて文章に書いていたりもします)。
1980年代の末には「ノートテイクのシステム化」が議論されはじめ、いろいろと「障懇」で検討されて、結局設置に至ったのが「1990年代初頭」(192頁)だったようです。システム化というのは、ノートテイカー学生のアロケーションを教務課がする仕組みのことです。
これで私は和光における「スロープ」/「ノートテイク」の年代とそれを作っていった人物(と篠原さんとの間のある種の緊張関係)バナシはつかんだ感じがします。
★01. 境屋さんについては立岩先生が書いていました。
「この本も生い立ちからずっと書いてある。1952年高崎市生まれ。脳性麻痺に。1960年に施設に入所、養護学校に入学。高等部は(現在筑波大学付属)桐ヶ丘養護学校。1973年に「自立生活」を始める。76年に和光大学に入学。車椅子の聴講生を受け入れ話題になった明治学院大学は願書の受理を拒否、和光大学も受け入れは初めてで、様々にもめる――ちなみにさきにちらっと名前を出した篠原睦治はここの教員で、本の中にも出てくる。77年から84年の間に3人の子を産み、88年に子の父と別居、91年に離婚、3番目の子と暮らす。」http://www.arsvi.com/w/sj03.htm
◆立岩 真也 2003/04/25 「人生半ばの女性の本――「障害関係」・3」(医療と社会ブックガイド・26),看護教育』44-04(2003-04):(医学書院)
★02. 境屋さんは桐ヶ丘→和光ということなので、篠原さん/梅根さん、古賀典夫さん/越智大輔さんなどなどと同じく、教育大/筑波大付属系列→和光という流れの一人でもあるみたいです。
★03. 篠原さんは「たち」と言っています(30頁)。この「たち」が誰なのかはよくわかりませんが、文脈的には境屋さんの前年1975年に和光大学に入っていた「松葉杖」の天野誠一郎さんが絡んでいたみたいです。
★04. 高等部2年までは北海道、高等部3年からは神奈川県立平塚養護学校。
★05. 兵頭さんも教育大の附属聾→和光なので、やはり教育大/筑波→和光という流れの一人です。兵頭さんは「口話」教育を受けてきたので、大学に入っても口話/筆談でと思っていたが、そこで手話を使える「健聴」の西村さんに出会い~という話が『関係の~』の72頁あたりにあります。この人はおそらく「西村久美子(結婚して、深海久美子さん)」さんだと思います。XXさんがおっしゃっていた「大学時報」にそういう話が書いてありました。
◇「手話通訳士深海久美子さんに聞く」https://daigakujihou.shidairen.or.jp/download/?issue=356§ion=7
★06. 深海久美子→小島純郎エピソードも書いてありました。深海さんが在学中に小島純郎さんに出会い、小島純郎さんが「手話を覚える」きっかけになった云々という話です。おおまかにいうと深海さんが当時非常勤で来ていた小島純郎さんのドイツ語を受けていた→ただし聴覚障害学生に手話通訳をしながら深海さんは受けていた→授業に集中できず深海さんと聴覚障害学生は「赤点」だった→小島さんはそれに気が付き話しかけ…という話が↓に書いてありました。
https://daigakujihou.shidairen.or.jp/download/?issue=356§ion=7]
★07. そしてそれが小島純郎/塩谷治→福島智さん→全国盲ろう者協会へつながっていくということのような気がします。塩谷/小島による福島さんを支援する会の設立は1981年11月30日みたいです(http://www.arsvi.com/2010/20190108fs.htm)。
■年表
1975年4月 天野誠一郎入学
1976年4月 境屋純子入学→スロープを作る話に
1977年4月
・兵頭毅入学
・西村久美子入学(西村は年度が違うかもしれないがおそらく)→兵頭/小島純郎と出会う
・鈴木治郎入学→「スロープ」話が再燃し「遊歩道」として設置
1980年代末
・「ノートテイクのシステム化」が議論開始
1990年代初頭
・「ノートテイクのシステム化」がなされる
投稿日:2023/02/23
修正日:2023/02/23