■暇な学生を紫野に配置する
オータさん(デカい穴マスター)とお話していて、大学院生――大学院生だろうが大学生だろうが在野の研究者だろうが本当は良いのだが仮に——の研究発表をデカい穴でやろうということになった。楽しく研究のことをしゃべってもらって、お酒もついでに飲む。飲みたくない人はソフトドリンク。
自己紹介。私は立命館大学のセンタンソーゴーガクジュツケンキュウカというところで大学院生(一貫性博士課程2年)をしている。研究分野は社会学——より正確に言うと社会運動史/障害者運動史――である。どこでなにしてるとか本当はどうでもいいのかもしれないが一応。それでまずVol.1として私がお話をする。日程は未定。きっとあまり人は来ないだろうが、何事もまずやることが大事なのだ。だいたい2,3人来てくれたら良いと思っている。私の研究については自己紹介ページみてくださいませ。くわしいバージョン→[リンク]。
それで設立趣意書と言うか、なんでやるのか、ということを書いておく。
面白い話が聞きたい、というのは人類普遍の欲求である。しかも人間から直接聞くというのが大事だ。もちろん本とかYOUTUBEとかも面白いけど、生の人間から聞かないと分からないことはある。エネルギーみたいな。そういう変な面白い話してくれるやつを町中に配置しておいたほうが、町が面白くなるにきまっている。オータさんがそう思ってるかはしらないが、そういうことなのだ。
要するに目論見は紫野になぜかはしらないが——経済的合理性が全くないにもかかわらずーー研究とかいうよくわからない行為をやってる人間を「はびこらせる」、そのための事始めである。まずデカい穴に集積し、それを紫野に定着させる。培養。増殖。爆発。それによって紫野の空気をおかしくさせる——すでにおかしい感じもする。もちろん、良い方向にである。遊びを作る。暇で賢くて面白いこと考えてるやつが街にいた方がいないよりもウケるに決まっているのだ。
回数。100回はやろう。アフリカの人類学やってる人から、脳波を測定している人まで。セックスプレジャーの研究してる人、チェスの研究してる人、寺の研究してる人。なんでもいいです。とにかく手あたり次第に呼んで、聞こう。話をさせよう。してもらおう。飲もう。100回、嘘ではない。面倒なので自分からやりにきてくれる人求む。そうやって、紫野の時空をゆがませるのだ。ついでに本でも作る?。以上。
追記:学振やらJSTやらなんやらがない、お金がなさそうな人にはビールくらいおごる。私もお金はないが、こういうのは贈与なのだ。(否、カンパを募って儲けよう!)
■レジュメ
そういうことなので、Vol.1のレジュメを書く。今回は今考えていることの試論。大学院に入ってから書いた原稿は文献をカリカリ読解するものだったのだが、そうではなくて少し緩めのことを書く。
追記
ここに書いたことのほとんどは安冨歩さんの議論によっている。加えて、寄尊恒信さんの議論を参考にしている。
◇嫌なことを嫌だという
私の研究の軸はハラスメントである。それは簡単に言えば、「嫌なことを嫌だと言えない状態」のことだ。1対1の関係性であれば、「嫌だ」と言えば良い。もちろん、お金だとか今までにその人と過ごした時間だとか思い出だとか、そういうことで言えないこともある。しかし、そういうことを考えなければ、嫌だと言えばいい。そう単純ではないが、いちおうそういうことにしておく。
おれの目から見ると、あんたはまだ、ほかの十万もの男の子とべつに変わりない男の子なのさ。だからおれは、あんたがいなくたっていいんだ。あんたもやっぱりおれがいなくたっていいんだ。
星の王子様
だけど、あんたがおれを飼いならし仲良くなると、おれたちはもうお互いに離れられなくなるよ。あんたはおれにとって、この世でたったひとりの人になるし、おれはあんたにとって、かけがえのないものになるんだよ。
これは星の王子様の一節。「飼いならす」と「離れられなく」なるのだから、これはまさにハラスメント。
本題。難しくなるのは、複数人というか集団というかの場合だ。集団で「嫌だ」と誰かに伝えることは社会運動と呼ばれる。自分だけ嫌だと思っていても有効に「嫌だ」と伝えることができない。それを周りと共有して、一緒に行動する必要がある——学問的には動員論mobilizationとかいう。
私が研究している領域は、後者――複数人の場合。歴史において「自分が悪い」と社会的に思いこまされている人が、実は「社会が悪い」のではないかと考え、連帯し、「嫌だ」と言ったことはたくさんある。黒人差別、障害者差別、女性差別など。そういうことの歴史を調べ、なにをどのように言ったのかを知り、まとめる。そういう仕事をしている/したいと思っている。
◇青い芝の会
青い芝の会は日本の障害者運動の嚆矢――最初に始めた人たち――だ。1970年代にとても注目されたし、いまでも研究では彼/彼女らの運動は同時期について着目される。彼らがやったことは、まさにハラスメントへの抵抗だった。以下、彼らが示した行動綱領を掲載する。よくわからないかもしれないが読んでください。
一、われらは自らがCP者であることを自覚する。
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。
一、われらは強烈な自己主張を行う。
われらがCP者であることを自覚したとき、そこに起こるのは自らを守ろうとする意思である。われらは強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。
一、われらは愛と正義を否定する。
われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。
一、われらは問題解決の路を選ばない。
われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行うことのみわれらの行いうる運動であると信じ、且つ行動する。
一、われらは健全者文明を否定する。
われらは健全者文明が創り出してきた現代文明がわれら脳性マヒ者をはじき出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動および日常の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明を告発することに通ずることを信じ、且つ行動する。
私はここに示されたメソッドが「ハラスメントへの抵抗」の指針になると考えている。ここに示されているのはダイナミックで、サイバネティックな抵抗の形である。以下、いくつかを取り上げながら説明する。
◇一、われらは愛と正義を否定する。
これは「あなたのためなんだよ」を否定するということである。ハラスメントは常に「あなたのためなんだよ」を明示/非明示的に伝えることで成立する。他者からの隠蔽。
- あなたのために〇〇している
- あなたの将来のためを思って〇〇している
- そんなんじゃ、社会/ほかの会社/大学院で通用しないから、〇〇している
〇〇には任意の暴力、嫌なことが入る。嫌なことをしておいて、でもそれはあなたのためなんだよ、と伝える。こうやって人は呪縛にかかる。それを否定する。
◇一、われらは自らがCP者であることを自覚する。
自分自身を隠蔽しない。他人からの暴力を自己正当化する、という行為を否定する。
- あなたが悪いから殴ってるんだ
- あなたが成績がわるいから締め上げてる
- 努力しないから怒ってる
こういうことを言われ続けた人間は次第に自分が悪いからハラスメントを受けている、と認識するようになる。自責の念に駆られる。こうなってしまえばハラスメントによる呪縛は完成である。
- 自分の成績が悪いから先生は怒鳴るんだ
- 試合に負けたから体罰があるのだ
- このひとは自分の為をおもってあえてキツく
こうなってしまった人間が自分は本当は悪くなかったのだと認識し直すことは極めて困難である。ゆえに、行動綱領は自分自身が差別される存在であることから出発しようとする。それは自分が悪くないにもかかわらずそれが隠蔽されたことによって、自分自身が自らが悪いと「錯覚」する。このことを抜け出すための方策である。
自らが差別されていることを隠蔽することの否定、とパラフレーズできる。前項が他人からの暴力の隠蔽を否定したことと対応する関係にある。
◇一、われらは強烈な自己主張を行う。
これは自分が嫌だと感じたときにきちんと嫌だという、ということである。
先程の2つは、嫌だという思いを隠蔽することへの抵抗であった。この項は嫌だということを相手にきちんと伝える、そのためには強烈な自己主張を辞さない。このように読む。
◇しかし、難しい
ひとまずわかりやすい部分を書いた。ここまででわかったはずだが、青い芝の道によってハラスメントに抵抗するには相当の覚悟がいる。それは人間がいろんなことをして隠蔽していたことに目を向ける、ということだから。
兵庫県立大学環境人間学部准教授の竹端寛さんもこの方面で行動綱領を読んでいる[対話とハラスメントの違い]。これは現代社会が持っている非明示的な暴力を打破するメソッドなのだと思うが、それを使えるかどうかはすごく難しいところがある。それは学問的な言葉ではないかもしれないが、勇気がいるから。勇気がなかったら、青い芝の会の示したメソッドは使えない。
「次々と問題提起を行なうこと」は、「対立」や「対決」を辞さないことである。これは、結論ありきの相手にとっては、非常に面倒である。そこに一定の理があった場合、下手をしたら自らの結論そのものの正当性が、第三者によって問われかねない。これはパッケージ化の瓦解である。実に恐ろしい。だからこそ、「『エビデンスはあるのか』、『全体の調整を考えていない』、『社会の分断を招く』などの非難」をして、火を消そうとする。対話をすることは自らの変革の必要性に向き合う必然性が出てくるし、それは大変なので、相手の学習過程を破壊するハラスメント的言説だけを必死で返している。それが、「対立」や「対決」への違和感として表明される内容である。
竹端寛 2019年7月20日 「対話とハラスメントの違い」
そうすると、「対立」「対決」ではなく「対話」を、という発言自体の正統性も、問わなければならない。こういう言説自体の中に、「安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか」という根本的問題がはらんでいる可能性があるのだ。そして、以前の、ハラスメントを鵜呑みにしていた時代の僕は、「安易に問題の解決を図ろうとすること」こそ「対話」だと思い込んでいた。
「対話のフリをしたハラスメント」から抜け出すためには、40年前のテーゼが今日的にも役に立つ。
◇終わりに
いろいろと書いた。試論であり、妄想的なところもある。ただ、基本的な読解は全く間違っていないと考えている。こういうことを考えている大学院生の話を聞きに来たい方がいたら来てください。終わり。
■参考文献リスト
投稿日:2022/07/04
修正日:2022/07/04 -> 2022/07/10