20250123日誌:仕事を分けるところ

 以下は日誌です。 「障害者の働くを/から考える——福祉・就労・教育」という企画を行うことになった。詳しい趣旨は下記の通りということもあるが、研究会でやっていることであって、諸々省略せざるを得ない。「障害者の働くを/から考える——福祉・就労・教育」https://www.r-gscefs.jp/?p=15682

 ここでは私なりの経緯について、特に仕事を分けるということだけ。

 そもそも「ナリワイ」ということを数年ずっと考えていた。これは伊藤洋志さんの言葉で、「ナリワイとは、個人で元手が少なく多少の特訓ではじめられて、やればやるほど頭と体が鍛えられて技が身につき、ついでに仲間が増える仕事のこと」と定義されている(『ナリワイをつくる』=筑摩書房)。

 それでナリワイというのは、自分自身が面白いと思えるようなことで仲間が増えることを探すわけだから、簡単に言えば「複業」にならざるを得ない。つまり、いろんな仕事を重ね合わせて生計を立てることを念頭に置いている。「いやになったらすぐ辞められる」ということでもあり、「自分の手元でできて、実感のある状態を保つ」ことでもあるから、あまり稼いではいけない、稼げないということにも結果としてなる。稼ぎすぎるとそれに依存せざるを得ないということでもあるが、稼げない仕事であるからギラギラとした人は来ないという打算もある。月に5万円の仕事を4つ作るというイメージ。もちろん、夏だけの仕事とか、春だけの仕事とかがあってもよいという。そこにある種の抵抗的ライフスタイルがあり~という話は本を読んでいただくのが早い。

 私はその『ナリワイをつくる』という本を読んで、たしかそれは大学3年生くらいのときだったと思うが、痛く感銘を受けることになった。それで、私自身は、そういうことが実践したいと考え、自分なりにはうまくできていると思う(詳しく書くとややこしいので省略するが、罠猟の免許を取得したり、電気工事士の免許を取ったり、諸々個人事業をしているのはそれゆえでもある)。ちなみに、だが、伊藤洋志さんは、地震とかで崩壊しそうなコンクリートブロックを破壊するという活動をしていて、去年(2024年)の夏にそれに参加したという思い出もあり、あれは本当に楽しかった。

 さて、近藤先生の超短時間雇用という話を聞いて真っ先に思ったのは、「ナリワイ」という言葉だった。「ナリワイ」が、シンプルに言えば複業によって、【生計を立てる】ということを目指すとしたら、超短時間雇用は(極端に言えば)「生計を立てる必要はない」というラジカルなものだと思った。

 ある種の給付によって生きるときに、そこになんらかの分割された仕事(しかしナリワイ的な、やることで自分自身が豊かになり、仲間も増えるような)があれば、より楽しく生きられる。

 そのラジカルさについて、小川先生から受け取ったこと。そもそも「ナリワイ」みたいなことは、インフォーマル経済では、一般的なことなのだと思う。 まず専業化は危ない。その業を成り立たせている条件が変われば(その条件は極めて不安定である。その地域の駐在さんが気が変わった、とか。市議会議員がぽろっと変なことを言った。そんなことですぐに環境は変わる。たとえばイーロン・マスクがAPIの制限をしたときは、私のほんのささやかな事業の一つは辞めざるを得なかった。)、即座に立ち行かなくなることがあるから。だとすれば、専業化せずに、いろいろなものに「賭け」ておくことを、集団的にやっておくと、何かがコケてもなにかは生きていて、食っていけるということだと理解した。「役」を頑張って果たして~という社会が(個としても社会としても)本当に安定的なのかという問いを考えさせらることになる。 おそらくそこには、その動的な関係性のなかで、一定の個は「生計を立てなくてもいい」ということも含まれている。それはナリワイ的な構造のやさしさかもしれない。その集団のなかに大まかにいれば、単独で生計を立てられないような人であっても、「まあよい」ということになる、ということはあると思う。また、そこで自然に何か役割を与えられる問こともあると思う。そのあたりのことを考えたいと思った。

 すなわち私の中では、近藤先生の超短時間雇用は伊藤洋志さんの『ナリワイをつくる』を経由して、小川先生につながっていた。これはこの企画を考える前から。

 しかし、アジールは常に険しいのだ。網野善彦の『無縁・公界・楽』が、アジールという文脈で引用されることがある。そこで、しばしば見落とされているように思うが、アジールは逃げ込んだらハッピーになれる場所では決してない。世俗のしがらみから逃れ、縁切り寺に駆け込みをしても、そこでまっているのは別種の辛さ(よっぽど尼の世界のほうが厳しかろう)であって、楽々生きていくことが出来るものではない。

 だとすると、日本型雇用に対抗して強烈なアジールを作ろうとするのではなく、絶妙なアジールが生じうる環境を構造的に担保しておくことが、よいということになるような気もする。 このあたりで終わり。  

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山口和紀