2022-05-09
他方、田代は、停年後、東京市会議員となり、肢体不自由児の保護施設の必要を力説した。昭和6年、東京市教育局は調査の結果、小学校に在籍する体操免除の肢体不自由児が約7百人を数えたので、新しく学校を建設することになり、翌7年5月、東京市立光明学校が開校した。このように、高木は、恩師の田代とともに肢体不自由児の医療ばかりでなく、日本の肢体不自由教育の発足に当たって、力を尽くした。また、高木は、念願としていたクリュッペルハイムの建設に引き続いて尽力した。戦時体制へ進む情勢の中で、幾多の困難にもかかわらず、民間の力を結集して、その建設運動を進めた結果、ようやく昭和17年(1942)5月、整肢療護園が開園した。なお、高木の定義による「療育」を要約すれば、「不自由な身体を出来るだけ克服し、『肢体の復活能力』そのものを出来るだけ有効に活用させ、以て自活の途を立つように育成すること」とされ、その内容となるものが治療・教育・職能付与であり、いわゆるリハビリテーションと同義と考えられる。「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年4月号